かこちがおなるトング
これまでに築いてきた信頼がカシャカシャと音を立てて崩れていくようだった。その責は私たちにない。全くない。それでも申し訳なく思う。「もうここで働いてもらっては困るのです」と言われれば、「そうですよね……。分かってます。今までお世話になりました」と去るしかない。あるいは、「息苦しいだろうが、我慢してほしい」と言われれば、これもまた、分かってます、とビニールの膜を被ったり、密閉された狭いガラスケースの中で、息も絶え絶えに答えるしかない。
こんな通気性の悪い有り様も風潮も、一年、一年半と経つうちに、だいぶん慣れた。いっときは悪の根源、邪気の伝道者と見られていたが、人々は私たちの新しい扱い方に慣れてくれているようだ。もともと頑丈な体を持っていたことが幸いしたのかもしれない。引き続き私たちが使われているところでは、いずれも厳格な運用が為されているようだ。使われなくなったところでは……、どうなっているのか判然としない。そのものたちは第二の生を歩めているのだろうか。倉庫の奥深くで箱詰めにされて静かにしているのだろうか、粉砕され微細な金属片になったのだろうか、溶解され何かの金属部品に再加工されたのだろうか。
幸いにして以前と同じ役を与えられた私たちを、手に取ってくれる人たち。二年前程前と比べて、カチカチと鳴らす音を小さくされているのは気のせいだろうか。あの音を発していると、「迷っていらっしゃるなあ。どうぞ、存分にお迷いになって、好みの美味しそうなものを挟んでほしい。私たちはそれらをきっちりと捕らまえます」と期待に胸を膨らんでいた。しかし、今は、その音を発する機会が少なくなっているようだと、まことしやかにささやかれている。引っ掛け横棒からそっと取り上げられ、そっとトレイ氏と視線を交わす。私たちと同じく、厳しく清浄されているトレイ氏も何だかへなへなと張りが無いようだ。カチカチは響かず、力弱く美味しいものを挟み、トレイ氏へ移す。役割を果たしてはいるけれども、ぬぐい切れない寂しさがある。
そもそも私たちは、清潔が実体になったもののように思われていたし、私たちもそう思っていた。食事を楽しむ人たちが、じかに美味しいものを各々の箸でつまんだり、手掴みで取り上げるのは、はしたない。さらに言えば不潔であるとされる。その思いを汲んで、私たちが代わりに働いていると自負していた。清らかな食生活を世にもたらすために私たちがいるのだ、と。だが、それは思い上がりだった。
私たちは運び屋にされていた。
そのことは、ほとんど誰も知らなかった。誰が悪いわけでもない。「知らなかっただけで、良かれと思って」などと免罪を求めることばを言うつもりはない。言うつもりはないけれども……。
最近、思い出す。お腹を空かせた人たちに、ガシャッと取り上げられて、美味しい料理、お菓子、パン、それらを何のためらいもなく挟んでいた時の同胞の活躍を。好きなものを存分に食べようと思っていらっしゃる人たちの火照った手の感触を。それが、今は、恐る恐る手に取られ、カチカチの音は無く、さっさと機械的に食物を挟み、「使用済みはこちら」の中に投じられるか、トレイ氏を介して手袋をした店員さんに受け渡される。このような日々の様子をパン屋さんなどで働く同胞から打電――私たちの情報ネットワークはカチカチ音を利用したモールス信号で構築されている――で知ると、ただただ悲しさが沸き上がるのみ。
私自身はというと、今、甘いものが好物の人のもとに居る。四枚切りの食パンのトーストにジャムを塗るか小倉あんを塗るか迷った末に、ジャムを塗ったものとあんこを塗ったものと二枚食べ終わってから、「ここで塩気が来るとさっきの甘みがさらに引き立つのだが」と考え、バターだけを塗った三枚目を食べようかどうしようか迷うような人だ。この人は、摂氏二百六十度、二分半に設定したオーブントースターで焼いた食パンを手づかみでお皿に移していた。「あち、あち、あちっ! あっついな」とぼそぼそつぶやきながら、きつね色の食パンを焼き網から皿に移していたらしい。何年も。
ある日、この人がパン屋さんに行った時、頭の中で事柄が繋がった。
「このままではトング文化が滅んでしまう! それを食い止めるために、せめて1挺(はさみの助数詞が「挺」なので、似たような動きの私たちを挺と数えたようだ)だけでもうちで厚遇しよう」
この人は、パン屋さんで私たちを手に取る機会が多いからこんなことを考えたのであろうが、私たちはご家庭の調理でも使われているので、さすがに、当面のところ、滅ぶ予定まではない。そんな私たちの事情をよそに、この人は、販売店の調理器具コーナーで吟味ののち、小柄な私をオーブントースター用として、このうちに招聘してくれた。
以来、日々食パンを挟んでいる。たまに、食パンが焼き上がってから私を用意し忘れていることに気付くことがある。すると、この人は、まあいいかと手で掴もうとする。そして、「あちっ!」と手を引っ込め、「やっぱり、トング、トング」とぶつぶつ言いながら台所に控えている私を取りに来てくれる。
遠い記憶。金属加工されていた頃、ホテルのランチビュフェや、パン屋さん、ドーナツ屋さんといった華やかな世界を夢見たこともあった。しかし近頃は、こうして、毎朝、この人の素手の代わりに食パンを挟んで(時折、サツマイモやお惣菜の揚げ物などを挟んで)いると、決まったとおりに一人の人と顔を合わせる日々も悪くないかな、と思うようになった。華やかではないけれども穏やかで変わりない日が続くのは、ありがたいな、と。
夜中、この人の寝息か寝言が聞こえてきたのを確認したら、そんな思いをもって過ごしているよと、パン屋さんやドーナツ屋さん、ビュフェで奮闘している同胞に、この人を起こさない程度の音で、カチカチと安否を打電している。
片方がぎざぎざ、もう一方がなめらかになっているので、使い勝手がとても良いです
◎商品データ
商品名:愛着道具 小回り指先トング C-8443
製造元:パール金属株式会社
小売価格:990円(税込)
公式ページ:https://www.p-life-house.jp/goods_C-8443.html
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