役割を果たせなかった陰陽師 ―国宝で『今昔物語集』を読んでみよう(6)
今は昔のことです。播磨の国の……、ある郡とだけ申し上げましょう。そこに住んでいた人が亡くなり、家の者たちは、なきがらを葬る手はずを整えようと陰陽師を呼び、しばらく留まってもらうことにしました。招かれた陰陽師は家に入るとすぐに、眉をひそませ言ったのです。
「幾日かすると、このお屋敷に、鬼が来ます。どうぞ、身を慎み、控えめにお過ごしなさいますよう」
家の者たちは、陰陽師のことばを聞いて、顔の色を失くしました。
「そ、それで、私たちは、いかがすれば良いのでしょうか……?」
「その日に、物忌みをしっかりするしかありません」
数日が経ちました。陰陽師が告げた日、家の者たちは厳しく物忌みをして、心を張り、身を固くして時が過ぎるのを待ちました。そうして、声をひそめて陰陽師に聞きました。
「おっしゃっていた鬼は、どこから、どのような姿でやってくるのでしょうか」
「表の門から。人の姿で来ます。このような鬼神は、禍々しく、道を外れたことをしません。ただまっすぐ、ことわりに適う形で来ます」
これを聞いた家の者たちは、さらに、門の表に物忌みの札を掲げ、桃の木を伐り、それで門の周りを塞ぎ、まじないを唱え続けました。
そうするうちに時が来ました。表の門をしっかりと閉じたまま、人々は、物陰に潜み、隙間から外の通りをうかがっていました。すると、すぐそこに居たのです。藍を擦り込んで色付けた袴を着て、編み笠を首に引っ掛け、門の前に立ち、戸の隙間から家の中をのぞき込んでいました。
「あれこそ鬼」
陰陽師が言うと、家の中は、恐れに包まれました。
鬼の男は、門の前でしばらくじっとしていましたが、家の者たちが、ふと気づいた時には、鬼は門の内に入っていました。そして、皆が、はっと息を飲んだ時には、家の中のかまどの前に立っていました。この間、鬼は動いた素振りが全くないのに、多くの者たちが見ている中、家にまで入って来たのです。鬼だという男の姿は、間近で見ても、誰も見覚えがありませんでした。
「もう、ここに居る! これから何が起こってしまうのだろうか……」
人々が恐ろしさで凍り付いている中、この家の主の、年若い息子だけは違っていました。
「今からどうこうしても、きっとこの鬼に喰われてしまうだろうな……。よし、同じ死ぬなら、後々の人の語り草になってやろう。俺がこの鬼を射る!」
覚悟を決めた若者は、物陰から、弓を構え、先が鋭くとがった大きな矢を、鬼の胸に向け、ぎりぎりと力強く引き絞りました。
放たれた矢は、狙いを違わず、鬼の胴体、その真ん中に当たりました。
鬼は、己の腹に弓を突き立てたまま、身をひるがえし、駆けるようにして外に出ました。……家にいた者たち、皆にそう見えました。見えたと思ったその時、鬼は消え失せたのです。矢は、弾かれたように跳ね返り、地に落ち、からりと音を立てました。
そこにいた人たちは、鬼の有様に驚き、また、若者のしたことに呆れて、しばらくひと言も声を出せなかったのですが、鬼は払われたようだと分かると、少しずつ、若者に話しかけ始めました。
「なんと……、とんでもないことをなさったものよ」
若者は、
「同じ死ぬにしても、後の世の人が語り継ぐことをしてやろう、と思って、試しに射てみたんだ」
と、一息つきました。これを聞いた陰陽師も、驚いたような、おかしなものを見たような顔つきでいました。
こうして鬼を矢で射て追い払ったのですが、後々、その家に、たたりや、災いらしきことは、特に何も起こらなかったそうです。
このようなことは、陰陽師の仕組んだ図りごとと考えるのが当たり前でしょう。しかし、男の姿をした鬼が、いつの間にか、表の通りから家の中にまで入って来たことや、矢が当たったように見えて跳ね返ったことを考えますと、ただの人の為せるわざでは無いように思えます。鬼がはっきりと目に見える人の姿で現れるというのは、他に聞いたことが無く、なんとも恐ろしいことだと語り継がれております。
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『今昔物語集』巻27第23話「播磨の国、鬼、人の家に来て射らるる語」の現代語訳です。みんな大好き陰陽師の話です。
陰陽師というと、安倍・賀茂の二つの家系が有名ですが、この話に出てくる陰陽師は、そうではなさそうです。冒頭で、播磨の国の「どこかの郡」の部分が欠字になっていますし、出てくる人々の名前も明らかになっていません。こういうことがあったようだ、という出所不明のうわさ話の域を出ないもののようです。
この話では、鬼の姿と、陰陽師に対する評価が面白いです。鬼とされた男が身に着けていた藍色の水干袴(「藍摺ノ水干袴」)は、平安の時代には庶民の服装でした。今でいえば、インディゴブルーのデニムパンツに似ています。上衣についての記述はありませんが袴に合わせた粗末なものと考えられます。これに、笠を首に掛けている(「笠頸に懸タル」)ことが加わっているので、異様な雰囲気です。これを現代に置き換えれば、ヘルメットを頭もかぶらずに、ベルトを緩めて首に掛けているようなものでしょうか。そのような姿をした男が、戸の隙間から家の様子をうかがっているのです。自宅の前で、デニムパンツにパーカーを羽織り、ヘルメットが頭からずり落ちている男が、道路から家の中をのぞき込んでいるようなものです。殺気立って乱暴な言動をしながらやってくるよりも、怖さが増す気がします。
鬼の男は、門の外の通りにいたかと思ったら、体を動かすことなく、あっという間に家のかまどのそばまで入り込みました。この時、鬼の恐怖に攻められていた人たちの流れが変わります。それまでは陰陽師の予言と対策に基づいたペースで事が進んでいました。しかし、家の主の息子が腹を決めて、矢を放ち、鬼を退散させてしまいました。まさかの武力行使です。これには、家の者たちも陰陽師も呆気にとられます。家の者たちは「無茶なことをするなあ」と思っただけのようですが、陰陽師はそれに加え、「奇異ノ気色シテナム有ケル」と口には出せない、どこか腑に落ちない様子が見られます。
その理由らしきことが、直後の世間の感想と編者の語りにあります。
「然レバ、陰陽師ノ構ヘタル事ニヤ有ラム、ト可思キニ」(そのようなことは、陰陽師が仕組んだことだろう、と思うのが普通だが)
この考え方は、小説や映画、マンガ、テレビドラマなどに出てくるあやかしを退治する現代の陰陽師のイメージ―式神を遣ったり、派手な術でもののけ祓うような―とは違っています。この話に書かれた「陰陽師は人をだますのが普通」というのはどういう事でしょうか。
陰陽師はもともと、陰陽寮という役所で働いていた人たちを指します。言ってみれば、公務員です。ただ、時代が下るにつれて、陰陽寮に属さない陰陽師が出てきました。民間の陰陽師です。彼らのような「もぐり」の陰陽師の中には、公の陰陽師に近い技能や学識を持った者がいたのかもしれませんが、大した能力を持たない者も多くいたでしょうし、さらには、もっとたちが悪い「陰陽師もどき」がいたことも考えられます。この話に出てくる陰陽師は、その「陰陽師もどき」だった可能性があります。
ひと儲けするために、仲間の男と示し合わせて、鬼の役、陰陽師の役で、葬儀の場に入り込んだわけです。あとは、「鬼が来る」「鬼だぞう」「えいやっ!」「参った!」という台本があった、……はずなのですが、どこか途中でおかしくなりました。鬼の役の男が、皆の前で、瞬間移動したり、矢を弾き返したり、ぱっと姿を消したのです。鬼の役だった男が本物の鬼になった、もしくは、鬼が入れ替わったとしたら……。そのため陰陽師は、「奇異ノ気色シテナム有ケル」となったのではないでしょうか。本当に怖い目に遭ったのは、鬼がやってきた屋敷の人たちではなくて、その後、鬼と入れ替わった仲間の男の惨状を見ることになる、もぐりの陰陽師だったのかもしれない、という想像もできます。
もぐり陰陽師のような者は、この話の時代に増えていたのでしょう。「然レバ、陰陽師ノ構ヘタル事ニヤ有ラム、ト可思キニ」と書かれるほどに。この話は、ただの怪異話に加えて、普段人をだましていた者たちをこらしめる役割を果たしていたのではないか、と読みたくなります。
ここまで長くなりました。京都大学貴重資料デジタルアーカイブの『鈴鹿本 今昔物語集』にも少し触れておかなければ。
「今昔物語集(鈴鹿本) | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000125
画像通し番号465の左から3行目に、陰陽師が語る鬼の特徴が書かれています。
門ヨリ人ノ体ニテ可来シ然様ノ鬼神ハ横様ノ非道ノ道ヲハ不行ヌ也
というものです。文末の読みはどうなるでしょうか。「ふぎょうぬなり」にはなりません。『今昔物語集』では、助詞、助動詞はカタカナで小さく書く、という原則があります。ただ、打消を表す時はこれに当てはまらないことがとても多いです。ここの「不」は打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」として扱います。
「『ヌ』は『行』のすぐ後ろに書かれているじゃないか」
と思われるかもしれません。その通りです。『今昔物語集』では、打消の助動詞「不」を打ち消す単語の前に書いて、さらに打消の助動詞をカナにして単語の後ろにも書くという「半端漢文訓読体」とでも言えそうな方法を用いています。なので、ここは「不」の下に返り点があるように読むか、「不」は無いものとしてカナ書きの打消を読むか、どちらか一方を選びます。よって、「ゆかぬなり」(新日本古典文学大系の場合)か、「おこなはぬなり」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブの場合)の読みとなります。
画像通し番号466の2行目から3行目の、鬼が動くことなく家の中入って来た場面、
此ノ鬼ノ男暫ク臨キ立テ何ニシテ入ルトモ不見エテ入ヌ
の「不見エテ」も、助動詞「ず」と同じように扱って、「みえ『で』」の読みになります。「テ」と書かれていますが、接続助詞「て」ではなく、「不」が付いているため、打消の接続助詞「で」だと見分けられます。
・参考文献等
新日本古典文学大系37『今昔物語集 五』 岩波書店 森正人校注 1996年1月30日(現代語訳の底本。注釈を参照)
『今昔物語集を学ぶ人のために』 世界思想社 小峯和明編 2003年1月20日
『古語辞典 第十版』 旺文社 松村明・山口明穂・和田利政編 2008年10月24日
『今昔物語集(鈴鹿本)』 京都大学図書館機構 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000125
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