渇きを満たすに身を砕く
今は昔のことでございます。天竺に五百人の商人がおりました。彼らは商売のために、一人の在家の僧を伴って、よその国にいくことになりました。その道中、一つの山にさしかかりました。その山は深く、道を間違えてしまったのです。山道はますます険しくなるばかり。人の通った跡も無く、水の流れもありません。そのようなところでしたので、商人たちは、三日も水を飲むことができず、渇きで、のどが焼けるような思いをして、今にも死んでしまいそうな、ありさまになったのです。
そして、商人たちは、連れていた僧に言いました。
「仏は、世の中の皆々、一切衆生の願いをかなえてくださるということだ。めったにないことだが、三悪道に落ちたときの苦痛ですら、身代わりになってくださるという。あなたは、頭を剃り、衣を染めて、仏の御弟子の姿となっている。私たち五百人は、今、この時、のどの渇きで死にそうになっている。どうか、あなたの力で私たちを助けてください」「心底から誠実に御仏の助けを請われますか?」
「今日の命が助かるも、助からないも、ただ、あなたの力に頼ることしかありません」
商人たちの願いを聞いた僧は、高い峰に上って、大岩の下に座して、言いました。
「私は、頭を剃って仏に身をささげたと申しましても、まだまだ、修行は足りておりません。人々を助けるほどの力など持っておりません。ですが、商人たちは『あなたは、御仏の御弟子の姿をしている。だから、助けることができるはずだ。命を助けてほしい』と申しております。なんとか、水を与えてあげたいと思っておりますが、私には、その力はありません。どうすることもできないのです! 願います! 十方・三世の諸仏如来よ! 私の頭からほとばしる血、頭蓋の脳を捧げます。どうか、これを水と成して、商人たちの命をお助けくださいませ!」
そう、言い終わるが早いか、僧は、自らの頭を、大岩の先に打ち付けたのです。頭は割れ、血が吹き出し、僧の体を染めていきました。するとどうでしょう。その血は、流れるにしたがって、水へと変わっていったのです。五百人の商人、連れていた馬たちは、僧のもたらした、この不思議な水でのどを癒して、命が助かったのでした。
その僧というのは、釈迦仏の前世であり、僧によって、命を救われた五百人の商人もまた、釈迦仏の五百人の御弟子であると、語り継がれておりますよ。
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『今昔物語集』巻5・第11話「五百人の商人、山を通りて水に餓えたる語」の現代語訳です。巻5は釈迦の前生が語られ、彼の弟子たちとの深い関わりが語られる説話が収録されています。
この説話では、弟子は商人、仏は同行の僧侶です。僧侶は姿かたちだけはしっかりしていますが、まだ修行が足りなりレベルであることが分かります。それゆえに、五百人の商人の渇きを癒すほどの能力は持っていません。
そこで、僧侶が取った行動は、諸仏・如来に誓いを立てて、自らの身を捧げることでした。その描写は血が流れ、脳を砕くという凄まじいものです(「原文:「願ハ十方・三世ノ諸仏如来、我ガ首ノ脳返テ水ト成シテ、商人等ガ命ヲ助ケ給ヘ」ト誓テ、巌ノ崎ニ頭ヲ打ツ。其ノ時ニ、血流レ下ダル」)。
三世諸仏への祈りでは、水を出だすことができないと判断した僧侶は、捨身行で、我が身を捨てて、商人たちに水を与えたのでした。
この説話にあるように、わざと、釈迦の前生を修行の足りない人物に仕立て上げ、その代わりに岩に頭を打ち付けて頭を砕くという行いをさせることで、その後の釈迦の偉大さを強調しているということでしょう。
『今昔物語集』のこのような言説は特徴的なもので、激しい痛みを過去生に設定することで、釈迦の存在の大きさを喩えとして表しているのです。
『今昔物語集 一 (新日本古典文学大系33)』 今野達校注 岩波書店 1999/07/28 ISBN:4002400336
現代語訳には、この本の原文・注釈を参考にしました。
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