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先日の、至って真面目な記者会見の風景です。
リモートコントローラーの変なボタンを押したらしく、右上に変な画面表示が出たままでした。たった三文字なのに、緊張感が激減しています。
またこんなことにならないように、地上デジタル放送対応の、高機能のテレビジョン受像機が欲しいです。
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今は昔の話です。前の一条天皇の御代に、下野守・平維衡という武士がいました。この者は、将門を討った、陸奥守・平貞盛の孫です。
同じ頃、平致頼という武士がおり、維衡と致頼は互いにつわものの道をはりあう間柄でした。そのため、それぞれに、悪く告げ口をする者がおりまして、とうとう敵同士となってしまいました。
二人が共に伊勢の国にいる時、致頼が維衡を討とうとして、合戦を仕掛けたのです。その合戦は激しく、それぞれの親族、家来が多く命を落としてしまいました。しかし、結局、その合戦の勝負は付かなかったのです。
その後、維衡は左衛門の府の弓場、致頼は右衛門の府の弓場で、それぞれ、罪を問いただされたのですが、皆、自ら、進んで口をひらき、罪を認めたのです。明法博士だった惟宗允政は、それを考え合わせて、裁きを下しました。
「初めに襲い掛かって、殺害を企てた致頼の罪が最も重い。すぐに遠方への流罪に処すべき。致頼の攻めに受けて立ち戦った維衡の罪の方は軽い。一年間の追放にすべし」
この裁きによって、公からの仰せが下され、致頼は遠い隠岐の国へ流され、維衡は淡路の国に身柄を移されました。
その後、藤原致忠という者が、美濃の国で、前の相模守だった橘輔政という人の子と、家来を射殺したのです。この事件を、輔政は訴え出ました。それに応じて、京から検非違使の四等官・藤原忠親と、右衛門の四等官・縣犬養為政が、美濃の国へ派遣されました。彼らは事件の起こりから詳しく取り調べますと、致忠は自ら罪を認めましたので、裁きは先の明法博士の判断に従いまして、遠い佐渡の国へと流罪になったのです。
このように、昔も今も、このような罪があれば、朝廷は必ず適した裁きを下されるということは、当たり前のことであると、語り継がれておりますよ。
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『今昔物語集』巻23・第13話「平維衡、同致頼、合戦をして咎を蒙る語」の現代語訳です。
本話は物語としては、あまり面白くないと思います。簡単に書いてしまえば、合戦をした二人が、後の裁判で、それぞれ、遠島、場所変えの罪を受け、また別の事件での裁判で、犯人が遠島の罰を受ける、ということです。
この説話で、注目するところは、自白をした(原文「進テ咎ニ落ニケル」)ということと、後の事件の裁判で、判例に従った(原文「罪名ヲ勘ヘラレテ明法勘ヘ申スニ随テ」)ことでしょう。
本来ならば、合戦をした、また一方的に殺害をした、ということから、死罪が申し付けられるのが適切だったにも係わらず、自白をすることによって、罪が減じられ、遠島、追放になったのでしょう。
最近、裁判員制度を見据えた出来事が多く話題に上っています。実際に裁判員となり、重罪に当たる罪を裁く議論になった時、「自首」や「判例」の扱いが重要になることが予想されます。法律に詳しくない裁判員が、自首をどう見るか、判例をどう扱うか、は難しいところだと思います。「反省の意味を持った自首」と「自分の刑を軽くしたいが為の自首」の区別をどうするか、現在の社会情勢、人々の感情に即しているとは言いがたい、古い判例に則って裁いても良いのか、という疑問は、ここ最近の裁判をニュースを見ても、考えさせられることでしょう。
今回取り上げた説話での、「自首」や「判例」の扱いは、定型的で簡単なような気がします。一度、朝廷が下した判断は絶対的であり、事件の内容より、罪を犯しても進んで自供すれば、罪が減免されるという「型」が出来上がったことが述べられています。
しかし、現代では、そう簡単にはいかないでしょうし、裁判員制度が導入された近い将来、混乱が起ることは予想するのに難くありません。
『今昔物語集 四 (新日本古典文学大系36)』 小峯和明校注 岩波書店 1994/11/21 ISBN:4002400360
現代語訳には、この本の原文・注釈を参考にしました。
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今は昔の話。比叡山に山王院というところがございます。そこに広清(こうじょう)という名の僧が住んでおりました。広清は幼い時分から比叡に入り、師の教えに従い出家をして、法華経を学び、その意味するところ、筋道を悟り、絶え間なく、お経を口にしておりました。また、仏の教えの道へひたすらに進むことを望み、常に我が身が滅した後のことを心にかけておりました。前世からの縁で、俗世間のことに係わって暮らしてはいおりましたが、本心は、俗世から離れたところで、ひたすらに修行に励みたいと願っていたのです。そして、日々、朝から夜まで、お経を唱え続けることで、その徳を、後の世で悟りの境地へ至るためのしたいと考えておりました。
そのような暮らしをしていたある日、広清は、お堂で夜を徹して法華経を唱えて、後の世のことを祈り続けていたのですが、さすがに疲れていたのでしょう、そのまま眠り込んでしまったのです。すると、その夢に、八菩薩が現れたのです。いずれの菩薩も、黄金に輝いており、金銀や、さまざまな宝石を身にまとっていらっしゃいました。まさにことばでは言い表せないほどのありがたいお姿です。広清はそのお姿を見て、恐れ多く、また有り難く思い、拝み奉っておりますと、一体の菩薩が、お告げを下さったのです。
「広清よ。そなたは法華経の教えを深く心に留め、それを守る、この善き行いによって生死の輪を離れ真理の極みに達することを願っておるな。これは実に正しいことである。このまま疑いの心を持つこと無く、ますます仏の教えの道へ深く進むが良い。そうすれば、我々八菩薩がそなたを必ずや極楽世界へと導くであろう」
菩薩はこのようにおっしゃると、たちまちそのお姿は消えたのです。それとともに、広清は夢から覚めました。そして、広清はこの尊いお告げに、ただただ涙を流すばかりでした。以来、さらに心を込めて法華経を唱え続け、ひとときも気をそらすようなことはありませんでした。広清は夢告げを心に持ち続け、それを忘れることなく、後の世での悟りを目指しておりました。
その後、広清は、縁により、比叡山を下りて、京の一条の北にある堂に住むことになりました。そこで、変わらず修行に励んでおりましたが、ある時、重い病にかかりました。それでも、広清はなおいっそう心深く法華経をたよりにして、夢告げを信じ続けたのです。しかし、ついにその病は治ることなく、命は果て、そのなきがらは、弟子たちにより手厚く葬られました。
すると、毎夜、広清の墓からは、法華経を唱える声が聞こえてきたのです。その声は、必ず、法華経一部を読み通していました。弟子たちは、占いにより、広清のしゃれこうべを墓から取り出し、改めて、山の中の清いところへと葬り直しました。その後、その山の中でもなお法華経を唱える声が響き続けたのです。
このことは、尊く、不思議なこととして、語り継がれておりますよ。
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『今昔物語集』巻13・第30話「比叡の山の僧広清の髑髏、法華を誦せる語」の現代語訳です。
墓場でしゃれこうべが夜な夜なお経を唱えるのですから、一見するとこれはホラーです。しかし、この説話が収録されている巻13は、主に法華経の霊験譚を集めているので、ホラーではなく、ありがたいお話として伝えようとしていることが分かります。
『今昔物語集』ではこのように髑髏が話したり、お経を唱えるという説話がいくつかあります。どれも尊い話しとして語られているようです。今はどちらかというと、髑髏は、やや怖くて、気味が悪いというイメージを持っていますが、この説話などから考えると、髑髏、しゃれこうべは、肉体という「俗」がそぎ落とされて、「聖」が現れ出たものだと考えることができるでしょう。
リングやピアスなど、アクセサリーでは、よく、スカルがモチーフになったものがあり、人気も高いようです。髑髏が、人を惹きつけるというのは、洋の東西を問わず、前記のような共通認識があるからなのかもしれません。
現代語訳には、この本の原文・注釈を参考にしました。
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