本当のことを知らせようと頑張っている
二人でポーカーをしているとしましょう。お互いに五枚の手札は見せません。しかし、対戦相手は秘密の印で、自分の手札も、相手の手札も分かっていたら、どうなるでしょうか。もちろん、相手は、この手札で勝てると思ったらオープンするでしょうし、勝てないと思ったら流すことができます。勝てる時だけ勝負すればいいのです。
しかし、そんなことをしたら、対戦相手ばかりが勝つこととなり、勝負になりません。ゲームにならないのです。この仕掛けが分かろうと分かるまいと、秘密を知らない者は、面白くなくて、さっさとゲームを止めてしまうでしょう。
では、秘密の印が分かっている方が、この仕掛けを利用して、お互いに勝ったり負けたりを繰り返すようにしながら、相手が止めてしまわないようにゲームを続けさせて、最終的には、勝つようにしたらどうでしょうか。これだと、負けてはいても「ゲームだし、時の運だし、仕方が無いか」と思うかもしれません。ですが、秘密の印の仕掛けが分かったときは憤慨するでしょう。どちらにせよ、こっそりと裏の仕掛けを作ることが良くないということになります。でも、この仕掛けを知らない限りは、どちらも幸せでいられるのです。
もともとは、このようないきさつだったようです。広辞苑を引いてみると、
明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合わせで、常に一勝一杯になるようにあしらっていたことに起るという
と、あります。そうです、「八百長」です。
八百長というと、スポーツでたまに話題になるようです。裏取引があって、真剣に勝負をしているように見せかけて、初めから勝敗が決まっている、というものです。八百長を取り上げているニュースを見ると「あってはいけないけど、あってもおかしくないな」という印象をどこか受けてしまいます。
八百長は、スポーツに限らずあるようです。私は、唐突に知らされました。
「そういえば…」と思い当たる節が無いわけでもありません。最近の報道を見ていると、特にそう思います。あってはいけないことですが、普段メディアを通じて見せられていないところで、何かあるのだろうな、と考えることはある意味自然とも言えるでしょう。
私たちが組み込まれている社会で、このようなことがあっては困るのですが、先に述べたポーカーの例のように、知らないでも困らないですし、知ることが、幸にも不幸にもなるのです。
どちらが良いのでしょうか。これは大切なことのようなので、知っておいた方が良いような気もします。
この張り紙の書記者氏もそう思ったのかもしれません。だから、何気なく、電信柱一本にはがき大で一枚だけ張る気になったのでしょう。知ることが良くもなり悪くもなり、知らないことが良くもなり悪くもなるということを、この小ささが教えてくれます。
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