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2009.01.30

夕刊タブロイド紙っぽい文章の書き方

 最近は、インターネットで新聞記事を読むことができるので、新聞を取らなくなった方もいらっしゃるのではないでしょうか。新聞やテレビニュースよりも速報性が高い場合もあり、私も重宝しております。
 トピックスとして、ポータルサイトのトップページにタイトルが並んでいますが、これらの記事は、タイトルだけが表示されるので、配信元が分かりません。タイトルをクリックして、初めて、記事の概要と配信元が分かります。
 これらの記事を流し読みしていますと、記事の文体と、配信元にしっかりとしたつながりがあることが分かります。
 それを利用して、普通の日記を、夕刊タブロイド風の文章に書きかえてみましょう。

 元の素材として、このような文章を用意しました。

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 最近どうにも体重が落ちなくて困る。上着はまだしも、久しぶりにはいたズボンがぴちぴちぱちぱちだったりする。尻の肉が行き場を無くして右往左往している。あと、上腕と肩から肩甲骨にかけて。その辺りに肉が付くと、シャツなんかも厳しい。
 前は、甘い物をあまり気にせずに食べていたけど、体重は増えなかった。今は、体重計に乗ると、筋肉率が落ちて、体脂肪率が上がっているので、基礎代謝が落ちたんだと思う。
 このままでは、翌年には服が全部着られなくなりそうなので、筋トレでもしなくてはいけないな、と思っている。けど、運動が嫌いなんだよなあ。

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 これを、変換してみましょう。

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 「桜濱のダイエットの成果がでないワケ」

 桜濱の体重の増加が止まらない。
 一時は激ヤセという話しも出ていたが、いまやその面影も無く、激太りの様相を呈しているのだ。激ヤセの時に購入した洋服の一部は、もう、袖さえも通らないという関係者もいる。桜濱本人もここにきて激太りに危機感を覚えて、ダイエットを始めているのだが、結果ははかばかしくない。
 もともと、桜濱の意志の弱さは業界では暗黙の了解だ。
 「桜濱は好きなことを始めたら、それにのめり込む。恋愛でも、別れると言いながらも、相手女性に入れ込み、借金を繰り返した上に、ストーカーまがいのことをしたために、結局、相手に訴えられそうになったという話しもありますよ。ダイエットも同じで、食事の減量もスポーツも続かない。ダイエットをすると口ばかりなんです」(業界関係者)
 しかし、桜濱と交流のある人物からは、それほど太っていないように見えるという声も聞こえる。また、一般人では一皿食べきるのもやっとという喫茶マウンテンの料理をおかわりしたり、ケーキバイキングで初めから終わりまで食べ続けたという武勇伝などが知られている。
 「見た目には分かりにくいんですが、中身はヒドいものです。それに、桜濱は限度を知らないんですよ。後先のことを考えないから、そんなマネもしてしまう。今は、体重が落ちにくい体質になったにもかかわらず、以前と同じことをしてしまうから、悪循環になってしまっているんです」(事情通)
 桜濱が「甘党」の看板を下ろす日も遠くないか…。
 (日刊ボンクラ 2009/01/30 23:00)

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 これを書くのに利用した、夕刊タブロイド紙の特徴を書き出してみます。

 1.短いリード文で、結論を先に書く。
   20~30文字くらいで、要点を書きます。

 2.日常会話や書記では、あまり出ない言い回しをつかう。
   上の文章では、「その面影も無く」「はかばかしくない」「武勇伝」「看板を下ろす」などです。

 3.「だ」「である」調で、文末を断定的に書く。

 4.漢字やひらがなを使わずにカタカナで書く。
   「ヤセ」「ヒドい」「マネ」のようにです。

 5.「業界関係者」や「業界通」「事情通」などの肩書きの方の会話が入る。

 6.印象の強い語を混ぜる。
  「激太り」「ストーカー」「悪循環」などです。

 7.構成が定型的。
   [短いリード]
   [出来事のあらまし]
   [参考意見1]
   [反論]
   [参考意見2](反論の反論)
   [結論]

 8.結論は記者氏の意見を短く断定的、もしくは、余韻を持たせて書く。

などの特徴を際立たせて書けば、だいたいどのような文章でも、夕刊タブロイド紙風にすることができるようです。今回は、試験的に書いてみましたので、不完全ですが、「夕刊紙用語」をリストアップして、それらを駆使すれば、さらに夕刊紙の雰囲気が高くなるでしょう。

 ちなみに、私はシャツの袖は通りますし(ややきついものがありますが)、激太りというほど体重は増えておりませんし、甘党を辞める予定もありませんし、相手女性に入れ込んで借金をしたこともありませんし、ストーカーもしておりません。

 減量とスポーツが続かないというのは本当です。


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2009.01.20

仏陀の最期の日―子の悲しみ、親の哀しみ―

 今は昔のことでございます。仏陀がまさに入滅されるときでした。仏陀の御子、羅睺羅は、
「私は仏陀が涅槃にお入りになるのを目にするというのは、あまりに悲しくて堪えられない。今から旅へ出て、その悲しみから遠ざかることにしよう…」
とお思いになり、いくつもの国々を過ぎて、遥か彼方へと行かれたのです。
 羅睺羅はそこで、一人の聖者に出会いました。聖者は羅睺羅の姿を見て、
「あなたのお父上、釈迦牟尼仏は、今、まさに涅槃にお入りになろうとしていらっしゃいます。どうしてあなたはその場に居て看取られないのですか。どうして、このようなところにいらっしゃるのですか」
と言いました。羅睺羅は、
「私は仏陀が涅槃にお入りになることが辛くてたまりません。悲しくて、悲しくて、かたわらに居るのが堪えられなかったのです。それで、旅立ち、ここへ至りました」
と答えると、聖者は厳しく羅睺羅を諭したのです。
「あなたのお考えは、たいへん幼く、弱く、愚かなものです。お父上の仏陀は、涅槃に今にもお入りになるこの時も、あなたをお待ちになられていらっしゃるのです。すぐにお国にお帰りなさいませ。ご臨終の時に、心して、お立会いなさいませ」
 羅睺羅は、聖者の言葉に従い、泣く泣く帰途へとつきました。
 仏陀が、弟子の僧たちに「羅睺羅は来ていますか」と、お問いになられた、まさにその時に、羅睺羅は帰り着きました。僧たちが羅睺羅に、
「仏陀は、もはや涅槃にお入りになられようとしていらっしゃいます。羅睺羅様がなかなかお見えになられないので、お待ちでございます。さあ、すぐに、おそばへ行かれなさいませ」
と勧めると、羅睺羅は、泣きながら、仏陀のかたわらにお寄りになりました。
 仏陀は羅睺羅の姿をご覧になられますと、静かにおっしゃいました。
「私は、今、完全な悟りを得ようとしています。永久に、この世界から遠ざかるのです。あなたが私を見るのは、今が最後となります。近くへいらっしゃい」
 羅睺羅は、泣き崩れながら、仏陀へとお近づきになりました。すると、仏陀は羅睺羅の手を取っておっしゃいました。
「この羅睺羅は、私の子です。十方の世界に住む仏たちよ。彼を哀れみ、慈悲を給え」
 このように諸仏と誓約なさると、入滅なさいました。これが仏陀の最後のお言葉でした。
 このことから思うのです。清らかな御身でいらっしゃる仏陀ですら、御子の羅睺羅に対するお振る舞いは、他の弟子とは違っていらっしゃいました。まして、濁りの多いこの世に住まう者たちが、己の子を特別に思い、その子のために心を尽くそうとするのは、当たり前のことなのです。そのことを、その弱き者たちに、仏は御身をもってお示しになられた、と語り継がれているのでございますよ。

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 『今昔物語集』巻3・第30話「仏、涅槃に入り給はむとする時に、羅睺羅に遇ひたまへる語」の現代語訳です。久しぶりに、天竺部の説話を訳してみました。
 巻1・第1話から続いた釈迦の一代記が、いよいよ終わりに近づきました。俗な言葉で言えば、クライマックスです。釈迦の子、羅睺羅(らごら)が父の最期を見届けるのが悲しい、耐えられない、と言って、出て行ってしまいます。しかし、旅先で聖者に諭され、帰り着いた時は、釈迦の最期の時でもありました。我が子を想う釈迦の言葉、ただ泣き濡れる羅睺羅の姿。涙無しでは語られなかったでしょう。
 親が、死出の旅路の前に、子の幸せを願う、というのは、当たり前と言えば、当たり前のように思われます。しかし、この説話の話末評は、このようになっているのです。
「清浄ノ身ニ在マス仏ソラ、父子ノ間ハ他の御弟子等ニハ異也。何況ヤ、五濁悪世ノ衆生ノ、子ノ思ヒニ迷ハムハ理也カシ。仏モ其レヲ表シ給フニコソハトナム語リ伝ヘタルトヤ」(清らかな御身でいらっしゃる仏ですら、父と子の関係は、他の弟子たちの関係とは異なっていて、より深いものである。言うまでも無く、汚れた末世のこの世界に生きる者たちが、子どものことを気にかけて、あれこれと気の迷いを生むのは当然のことだ。仏もそれが分かっているので、自らその姿を見せたのだと語り継がれているのです)
と、言うのです。
 現代人の感覚からしたら、少し変だと思いませんか。子供の幸せを願い、子供を慈しむことは、美しい姿と思います。でも、仏法で規定されている『今昔物語集』は違うのです。「子が親を想うこと」は「孝養」として、ほとんど文句なく美徳とされるのですが、「親が子を想うこと」は「執着」の一つとされることがあるのです。子への愛情は、戒めの対象となっているのです。
 何故、このような考えがあるのでしょうか? ヒントになりそうな箇所が巻19(本朝付仏法)・第27話の孝養譚にありました。この説話は、ある法師が居て、その子供を深く愛していました。ある日、洪水が起きて、法師は、年老いた母もかわいい我が子も流されて、見失ってしまいます。一生懸命に流れに目を遣っていると、浮き沈みする我が子を見つけて、川に入り助け出します。そして、あと岸まであと少し、というところで、法師は、老いた母が流されているのも見つけます。一度に二人は助けられません。どちらかを助ければ、どちらかが助かりません。そこで、法師は、それまで助けていた子を投げ出し、母親を助け上げます。その様子を見た、法師の妻は、「なんて、とんでもないことをする人なの! 大切な目でさえ二つあるのに、子供は一人しかいないじゃない! このたった一人の宝のような子供を見殺しにして、今日死ぬか、明日死ぬかというような、枯れ木みたいなばあさんを助けるなんてどういうことなの!!」と泣き悲しみます。それに対して、法師は言いました。

 「おまえの言うことはもっともなことだ。だけど、明日にでも死ぬかもしれないと言っても、母親なんだ。どうして母が子に替えられようか。私たちの命があれば、子どもはまた授かる。泣くんじゃない」(「現ニ云フ事理ナレドモ、明日死ナムズト云トモ、何デカ母ヲバ子ニハ替ヘム。命有ラバ子ハ亦モ儲テム。汝ヂ悲ム事無カレ」)

 「親は一人だ。子供は産めば何人でもできる」なんて、現代ではとんでもない理論ですが、この考え方が「孝養」として尊ばれていたのです。
 でも、流された子の母親は納得しません。そりゃそうです。泣き叫んでいると、仏が哀れんで、子供を下流で助け出させてくれます。しかし、これも後で「老いた母親を助けたから、その心持ちに感心した」と法師の夢枕で告げられます。子供よりも老いた母親を大切にしたから、助けた、と念を押されるのです。

 我が子を愛する気持ちは分からないでもない。分かりすぎるほど分かる。釈迦もそれは認めている。だけど、それ以上に、親への孝行の方が貴い。それをやってのける常人はあまりいないから尊い、というのがベースになってるようです。




 現代語訳には、この本の原文・注釈を参考にしました。


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2009.01.10

避けられぬ老い

 今から2200年前、秦の始皇帝は不老不死の薬を探していました。あれこれと手を尽くしたようですが、結局は不老不死を得られずに、亡くなってしまいます。全てを手に入れたと思っても、不老と不死を手にすることはできなかったのです。
 不老不死伝説は、日本にもあります。よく知られているのは、『竹取物語』や「人魚の肉」の話でしょう。しかし、『竹取物語』では、富士山に不死の薬を捨て、人魚の肉は、迷信とされていて、結局のところ、不老不死は伝説に過ぎないものになっています。
 ですが、現代文明は、不老不死に近づこうとしています。近い将来、クローン技術などによって、不老不死が現実になる可能性もあります。
 しかし、果たして、人が、いや、生きとし生けるもの全ては、不老不死を得て良いものでしょうか。これも、昔から言われています。散るからこそ美しい。限りある生を受け入れて、それを全うしようとする力強さが、生物を輝きに満ちたものにするように思います。

 そして、ここに一人、老いと向き合って、散ることを受け入れた美しき人がいらっしゃいました。

老朽化
 老朽化…

 でも、建物と一緒にしてしまうのは、諦観しすぎていると思います。


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