京の都のウンディーネ
今は昔のことでございます。陽成院の御所は冷泉院でした。その冷泉院も、陽成院がいらっしゃらなくなった後は、その中にあった小路を通してしまい、北は人々が住む家になり、南は池などを少し残すだけとなったのです。
ある夏の日、西の対屋の縁側で、ある男が寝ておりますと、ふと、気配がしたのです。その方を見るとは無しに顔を向けますと、目に入ってきたのは、腰ほどの背丈のお爺さんの姿だったのです。そして、そのお爺さんは、寝ている男の顔を、ぺたりぺたりと撫で回すのです。なんとも不思議なことだと思いましたが、あまりに怖ろしくて、何もできずに、寝たふりをして身を固くしていました。すると、お爺さんは静かに立ち上がり来た方へと戻っていきました。星の明るい夜でしたので、お爺さんの姿がぼんやりと浮かび上がります。そして、池の際にまで辿り着くと、すっ、と消えてしまったのでした。その池は、誰も手入れをすることはなかったので、浮き草や菖蒲が茂って、たいへん気味悪く、怖ろしく、妖気のようなものを放っているように思われました。
この一部始終を見ていた男は、「あの爺さんは、池の主に違いない」と思って背筋が凍るようでした。その日以来、お爺さんは、夜な夜な池からやってきて、男の顔を撫で回すようになりました。この話しを聞いた者たちは、怖がって手助けをしてくれません。しかし、たいそう勇気のある武士がその話しを聞きつけて、
「どれどれ、俺が、顔撫での爺さんをひっ捕まえてやろう」
と、言って、麻縄を用意して、一人で縁側に横なって夜を待つことになったのです。
だんだんと夜が更けていきましたが、宵の口には、まだ何も起こりません。「もう真夜中も過ぎてしまったぞ」と男が思いながら、うつらうつらとしたところに、顔にひやりと冷たいものが当たりました。
「奴が来たなっ」
と、男は思うと眠気が飛び去り、さっと起き上がり、素早く己の顔に触れたものを捕まえて、麻縄で縛り上げ、柱に結び付けたのです。
男の声を聞きつけた人々が火を灯してやってきました。その火を柱の方に向けると、薄青の衣を着た小さなお爺さんが、けだるそうにして、ゆっくりとまばたきをしながら、縛られている姿が照らされました。人々はお爺さんに何かしら声を掛けたのですが、全く口を開こうとしません。
しばらくすると、お爺さんはにやりとして、ふらふらと辺りを見回して、小さく苦しげな声を出したのです。
「たらいに…、水を入れて…、くれんか…」
それを聞いた人たちは、大きなたらいに水を入れて、お爺さんの前に置いたのです。お爺さんは、首を伸ばしてたらいの水面に映る自らの顔を見て、
「わしは、水の精じゃ!」
と、言うが早いか、たらいの水に、どぼんと飛び込んで、姿が消えてしまいました。たらいの水は増えて、縁からこぼれ出し、麻縄は結ばれたままたらいの底に沈んでいました。お爺さんは、水になってしまったのです。人々はこれを見て、たいそう驚き、不思議に思いながらも、たらいをそっと持ち上げ、水をこぼさないようにして、不気味なあの池へとそそぎ入れたのでした。
その後、お爺さんが来て、人の顔を撫でるようなことは無くなりました。きっと、水の精が人の姿になって来ていたのだろうと、語り継がれることとなったのですよ。
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『今昔物語集』巻27・第5話「冷泉院の水の精、人の形と成りて捕えらるる語」の現代語訳です。この季節に合う説話を選んでみました。
「霊鬼」の話しが集められた巻27の中でも、この第5話は、ややコミカルな雰囲気を持っています。夜中に冷たく小さな手で顔をぺたりぺたりと触られるのは気味が悪いですが、大した害はありませんね。ちょっと手荒な退治劇でした。
水の精というと、西洋の「ウンディーネ」の存在が思い浮かびます。ウンディーネは、普通、美しく若い女性の姿で描かれています。文学作品では、悲恋の主人公として書かれることが多いようです。そのイメージがあると、この説話に出てくる、お爺さんは、それとは対極の雰囲気を持っています。冷たい手(原文「面に物のひややかに当たりければ」)、水色の衣(原文「浅黄の上下を着たる」)と、いったところに、水の精らしさが表れています。
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