ひねくれもののお絵かき上手
今は昔のことでございます。比叡の山にある無動寺に、義清とおっしゃる阿闍梨がいらっしゃいました。義清阿闍梨は、若い頃よりこの無動寺に籠もり、真言の教えを深く学ばれたということです。そして、京に上ることが無いのはもちろんのこと、年月が経つにつれて、僧房の外に出ることも少なくなられ、たいそうご立派なご様子となり、比叡の山でも五本の指に入るほどの聖者となったお方でした。そのため、「なにかあれば、義清阿闍梨にご祈祷していただくのがよい」という評判でございました。
そして、この義清阿闍梨は「戯画」の上手でした。戯画というのは、面白みのある絵のことでございます。たいていの戯画は、面白く見せようとするあまりに、大げさに描き立てるものでございますが、阿闍梨の戯画は、何気なく筆を動かしたようでも、一筆だけ「さっ」と描いただけで、そこからは、なんともいえない面白みがあふれ出すものだったのです。
しかし、義清阿闍梨は、このような絵の名手でしたのに、めったに絵を描かないお人だったのです。わざわざ、貴重な紙を継ぎ合わせて、絵を描いていただこうとした人がいたのですが、阿闍梨はその大きな紙に「ちょん」と何か小さく描いて終わりということがあったそうです。
また、他の人は、長々とした紙を阿闍梨に差し出したところ、阿闍梨は、紙の一方の端に「弓を射た人」のような形を描き、もう一方の端には、丸い「的」を描かれました。そして、最後に、紙の真ん中に、矢が飛んでいるかのように、「すーっ」と長く線を引いたのです。その出来上がりを見た人は、「筆をとったもんだから、上手な絵をこの長い紙に描いてもらえると思ったのに! 誰でも描けそうな人形と丸と線でお終いだなんて! せっかくお高い紙を用意したのに! 紙の端から端まで線を引っぱったもんだから、これじゃ他のものも描けなくなって、紙が台無しだ! いっそ『描かない』と言ってくれたほうがよっぽどましだった!!」と、ひどく腹を立てたという話しも聞いております。
このように、義清阿闍梨は、少々ひねくれたところのあるお方でしたので、世の中の人たちは、阿闍梨をよく理解してはおりませんでした。ただ、戯画が上手なお方だという話しだけが一人歩きをしていたようです。阿闍梨が、真言の聖者で貴いお方であったということは、阿闍梨のことをよく存じ上げていた人しか知らず、先ほど言いました評判も、そのような人たちの間でしか立っていなかったようです。
阿闍梨のこのご気性で、とんだ騒動が起こったことがあるのです。
…おや、もう、こんな時間ですか。この騒動のことはまたの機会にお話しいたしましょう。
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『今昔物語集』巻28・第36話「比叡山の無動寺の義清阿闍梨の鳴呼絵の語」の現代語訳です。「鳴呼絵(おこえ)」が、戯画、面白みのある絵のことです。
このお話しは、後半が欠文になっていまして、『今昔物語集』の説話につきものの「トナム語リ伝ヘタルトヤ」という終わり方になっていません。そのために、上の訳でも途中で切り上げるような書き方をいたしました。
尻切れトンボですが、後半のあらすじを書いておきます。
義清がいた頃の比叡山の最高位の僧(座主)は慶命という人でした。慶命は、年が若く、かっこいい、慶範という僧を愛弟子として、かわいがっていました。慶範は、それをいいことに常日頃、我が物顔で振る舞っていました。ある時、無動寺の法会が行われ、そこで供えられていたお餅を、寺の僧たちに分配することになりました。その分配役が義清阿闍梨でした。義清は、世事に頓着しない人だったからか、年若い慶範には少ししかお餅を分け与えませんでした。これに慶範は、「なんで俺の餅が少ないんだ! あの年寄りめ! 懲らしめて、目に物を見せてやる」と腹を立てたのです。これを伝え聞いた義清はとても怯えて、「これは困ったことになった。懲らしめられる前に、謝罪文を書こう」と紙を取り出して、何やらそれに書き付けて、萱と共にこれを慶範に送ったのです。
と、ここまでで本文が終わっていて、どの写本でも以下が欠けてしまっているのです。 おそらく、義清は謝罪文と一緒に面白い絵を描いていて、それが功を奏して、慶範をなだめることができたのでしょう。どのような絵を描いたのか気になります。
『今昔物語集』には、このように最後が欠けている説話がいくつかあります。いずれも結末が気になりますが、無いものは無いので仕方ありません。我慢するしかないです。残念ですね。
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