アメリカンコーヒー専門店? ~入店の日。そして…~
これの続きです。コメントもご参照下さい。
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確かにそこは何度も通り過ぎた道だった。間違いないと思って、二度三度と往復した道だった。しかし、その時は、蜃気楼のようにその看板は消え失せていた。
今はある。目の前にそれはある。蜃気楼のように消えていたそれは、沙漠の湖のごとく再び眼前にある。年季の入った臙脂と紫の看板に、手書きの品書き。初めて私がそれを目にしたときから、いや、何年も何十年も前から一分の違いも無く、その場所に置かれているかのように思われた。
消えていたのが嘘のように
「COFFEE 喫茶うすい」は、この店の正しい名前ではないようだ。入り口のガラス、その上に取り付けられた大きな看板には「ミュージックプラザうすい」と書かれている。窓ガラスの文字や上の看板も、長い年月を経ているようだ。
昭和30年代、「歌声喫茶」というものが流行したと聞いたことがある。喫茶店に集まった、見知らぬ客同士が合唱をする店だったという。昭和40年台に入り、純喫茶が流行するとともに歌声喫茶は衰退する。音楽喫茶というものもある。主にジャズが流されているとのことだが、品書きを見る限り、ジャズの雰囲気は伝わってこない。
一体、この喫茶店では、どのような音楽が流れているのだろうか。
私は、重いガラスのドアを引き開けた。先には、階下へと続く階段が伸びている。「うすい」は地下にあった。
階段を降りきると、もう一つドアがあった。それを開けて店の中に入る。10数人が座れるほどのカウンター席と、4つ5つのテーブル席。二人一組の客がテーブル席に着いていた。彼等は煙草を吸っていない。しかし、店には紫煙の香りが沁みている。
二人の客は私を気にすることなく、会話を続けている。カウンターの奥には、誰もいない。棚にはキープされたウィスキーのボトルが並んでいる。この店は、喫茶店というよりも、スナックと呼ぶほうが適当のようだ。
一分ほど立ち尽くしていただろうか。左手奥のドアから、店の主人とおぼしき熟年の女性が現れた。
「あら、すみませんね。どうぞ、お好きな席へ」
私は、カウンターの中心近くの席に着き、脱いだブルゾンと鞄を左横の座席に置いた。
「何に、なさいますか」
ミストレスが訊いた。
「『コーヒ』ト、トースト、ヲ、オネガイシマス」
初めて気付いた。「コーヒー」を入り口に置かれた品書きの如く「コーヒ」と口に出すと、後に続く言葉は片言になるのだ。
「はいはい、コーヒーですね。トーストは1枚? 2枚?」
私の注文した「コーヒ」は「コーヒー」として、きちんと伝わったようだ。
トーストは1枚100円だ。安い。2枚注文する人もよくいるのだろう。
「1枚で」
「はい、ちょっとお待ちくださいね。あら、その席は上の電球が切れているから、暗かったら他の席に移ってくださいね」
ふいと見上げると、カウンターに沿って点灯している白熱球は、私の座っている上のものだけが切れていた。他の電球は点っている。暗いとは感じない。この席のままで良い事をミストレスに告げる。カウンターの端には、買って来たばかりと思しき電球が箱に入ったまま置かれていた。
そして、私は、出された氷水をこくりこくりと飲みながら、何という気も無く、カウンターの奥で私の「コーヒ」と「トースト1枚」を用意するミストレスを眺めていた。
パンが焼きあがる。
ミストレスはバターナイフにティースプーン一杯ほどのバターをすくい取り、満遍なく、丁寧に、慣れた手つきで塗りつけた。
その間に、湯も沸いたようだ。カップの上にドリッパーを置き、濾紙に入れた豆にその湯を注ぎ込む。これもまた、丁寧に、慣れた手つきで。
「お待たせしました。どうぞ」
私の前に、縦半分に切られた六つ切りのトースト1枚と、コーヒーカップが置かれる。パンの生地目に沁みこんだバターの香りとカップのコーヒーの香りが、紫煙の香りを紛らす。
「COFFEEうすい」の「コーヒ」は、「アメリカン」の「コーヒー」なのか。それを確かめるためにこの店に入ったのだ。淹れたての熱い「コーヒ」をすする。
薄くは無い。普通の濃さの「コーヒー」だ。
もう一口すする。芳ばしい香りが鼻をくすぐる丁寧なコーヒーだ。ここは「アメリカンコーヒー専門店」では無かった。だが、それを残念なことだとは思わなかった。
トーストをかじる。薄いきつね色の焼き色が付いている。さっくりとした食感をわずかに残して、バターの脂でゆるやかな口当たりになっている。難しいことはしていないトーストだ。しかし、美味い。
半分に切られたトーストを四口で食べ終わる。熱さの和らいだコーヒーをカップ半分ほど飲む。残り半分のトーストを、また四口で食べ終わる。残りのコーヒーを飲み干す。
「ごちそうさまでした。あの…、こちらは何時から開いているんですか?」
「朝はだいたい10時頃に開けて、昼は3時過ぎくらい…かしら、それくらいに一度閉めて、また夜は夜で開けますよ」
「あの、すみません。こちらのお店をインターネットのホームページで紹介してもよろしいでしょうか?」
「あら、インターネットですか…」
私は、最近はブログでお店を紹介する場合、店主や店員さんに、出来る限り了解を取るようにしている。礼儀であるとも思うし、このように話しかけることで、お店の人々と会話が弾み、食事をするだけでは知りようのなかったことが分かるときもあるからだ。ただ、初めは不審がられることもある。これは仕方が無いと思うようにしている。
「僕はインターネットのホームページで、自分が食事をしたお店の感想などを書いているのですが、こちらのお店もご紹介できたらと思いまして」
「インターネットねぇ…。私はインターネットも携帯電話も持っていないのよ。時代遅れね。紹介ねぇ…、どんなものかよく分からないけど、良いですよ」
「どうも、ありがとうございます。コーヒー、美味しかったです。…実は、こちらのお店の名前が『うすい』さんなので、アメリカンコーヒー専門の、薄いコーヒーが出てくるお店なのかなと思って、前からずっと気になっていたんです」
「『うすい』は私の名前なんですよ。『薄い』と『うすい』ね。あはは。なるほどね。頼まれれば、アメリカンコーヒーも出しますよ」
「そうですよね。だから『うすい』さんというお名前と、『薄い』を掛けて、アメリカンコーヒーだけを出すのかな、なんて思ったんですよ。薄くなくて、美味しかったです」
「いえいえ、どういたしまして。…でもね、実は、今度の22日でお店を閉めちゃうのよ」
『閉める』って…。えっ!
「『閉める』って、店じまいということですか?」
「そうなの。だから、紹介って言っても、22日までなのよ。…41年。ここで41年お店をやっていたのよ。昭和41年から41年間。でもね、私の体が動くうちに止めることにしたのよ。
…お店ってね、創めるときはそれほど難しくないのよ。止めるときの方が難しいわね。自分で止めることが出来るときに止めるの。それが良いと思うわ」
「そうなんですか…。ずっと前から気になって、今日こそはと思ってお邪魔したんですが…。残念です」
「そうね。残念だけど、仕方ないわねぇ」
そして、私は上を向き、一つだけ消えている電球を見た。
ミストレスは、あと10日余りで店を閉めるのに、電球を新品のものに取り替えようとしていたのだ。端の目立たない席の上に点っている電球を外し、カウンターの真ん中近くの電球と取り替えても良いはずだ。ほとんどの客は、そうしても気に留めないに違いない。それでもミストレスは、41年間続けていた通りに、あと10日余りを、一点の欠けも無いように、店内を照らし続けようとしているのだ。これも何かの縁だと感じた。
「もし、よろしければ、ここの電球を替えますよ」
「いやいや、いいですよ。あとで知り合いが来たときにでも替えてもらうから」
「いえ、簡単なものですから。取り替えますよ。あれを着ければいいんですよね」
「すみませんね。じゃ、着けてもらおうかしら」
私は、椅子の上に立ち上がって、新しい電球をソケットに捻じ込んだ。黄色の暖かい灯りが点る。
「あら、点いたわ。どうもありがとうございます。お客さんを使っちゃって、悪かったわね。私はこういうのが駄目で、上手く着けられたり、なかなか着けられなかったりするのよね。良かったわ」
「コーヒ」と「トースト」の代金400円をミストレスに手渡し、階段を上り、ガラス戸を開けて外に出た。夕方が早い冬の日だ。ちらりほらりとクリスマスを祝う白と青の硬い光が点り始めていた。私はその光に背を向けて、傾いた太陽がうすい闇へと変えている街の外れに歩を進めた。
◎店舗・商品データ
・商品データ
商品名:コーヒ
価格:¥300
商品名:トースト
価格:¥100
・店舗データ
店舗名:うすい
住所:名古屋市中区栄3-13-28
アクセス:「栄交差点」を西(名古屋駅方面)に約200m。「広小路呉服町交差点」を左折(プリンセス大通りを南下)して、約250mの左手。
※2006年12月22日をもって閉店。
週「刊」誌が揃っていました
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コメント
>もるさん
どうもありがとうございます。小説ネタで、採用されたのが、なによりも嬉しいです。
そうですね。道場主様は、ちょうど閉店の日に採用くださったのでしょう。粋なお方です。
前から気になっていたお店で、このようなタイミングに巡り合うなんて、つくづく縁は不思議なものだなと思います。
そして、閉店の日の「うすい」さんにコーヒーを飲みに行きました。お店には閉店を惜しむ常連客と思しき婦人客がお一人様いらっしゃり、ミストレスとお話しをしていらっしゃいました。
今日も、白熱球は点っていてくれました。
投稿: 桜濱 | 2006.12.23 09:05
道場採用おめでとうございます!
「うすい」、今日で閉店だったんですね。
道場主もきっと今日を狙って採用したに違いない……。
読んでいて思わず泣けてきました。
弱いんだなあ こういう人情もの……!!
投稿: もる | 2006.12.23 01:34
皆さま、温かいコメントをいただきまして、ありがとうございます。
>リムさん
初めは、「コーヒ」ややたらと安い「トースト」、「週間誌」など、ツッコミどころが満載のお店だなと思って、軽い気持ちで入店したのですが、思いがけず、感慨深くなる瞬間に出会うことができました。
もし、22日までに栄にお立ち寄りなさいましたら、是非一度、お店をお訪ねしてくださればいいなと思っております。「奇」な食べ物は無く、ネタにはならないでしょうが、しんみりとした気持ちになれると思います。
>まひろさん
前から「コネタ」と、「小説(っぽいもの)」が融合できないかなと考えていました。なにかに導かれたかのように、小説のような場面に出会えました。これを「縁」と呼ぶのかもしれません。
コメントはかぶっていても、全然問題ないのではないでしょうか。お褒め下さると、「もっと多くの方に楽しんでいただける文章を書いてみたい」という気に駆られます。
>不良中年店員さん
お久しぶりです。
喫茶店でも、ドーナツ店でも、はたまた他のお店でも、店じまいの当日よりも、その前の数日間の方が悲しくなるように思われます。ともし火の最後のひときわの明るさが、悲しさを導くのでしょう。
もう一つのブログ「たらふく。」の方では、新発売ドーナツの感想はできるだけ早く書くようにしておりますので、そちらもお読み下されば幸いです。
>みさとさん
いつもご覧いただいて下さいまして、ありがとうございます。新しくコメントを書き込んでくださる方がいらっしゃいますと、やる気がぐっと伸びます。
街の観察をしておりますと、素っ頓狂な状況に遭遇することは結構あるのですが、このようなしんみりとした場面に出会うことは稀です。ずっと気にしていたお店に入ったら、あと少しで店じまい、そして、たまたま座った席の電球だけが切れていたなんて、我ながら出来すぎているなぁと思いますが、これがまた本当に起こったことでして、心から不思議な縁だなと思っています。そうか、あの電球は私を待っていてくれたのですね。そう考えると、しみじみが増しました。
>この記述を見て思わず笑ってしまいました。
あくまで、この記事は「コーヒ」はどのようなものなのかを確かめることが底流にながれておりますので、最後に、運営しているもう一つのブログに倣って、あのようにデータを載せた次第でございます。
>みんたさん
大きな喫茶店やレストランだとそうはいきませんが、小ぢんまりとしたお店ですと、お店の方々と交流を持つことができます。再びお店を訪れて、会話をすることができるかどうか分からない…。これが一期一会というものなのでしょう。
店じまいのことが無ければ、前の記事の流れのまま、ただ「コーヒ」は普通のコーヒーだったと書いていただけでしょう。いや、この記事を書いていたかどうかも分かりません。今回、記事を書いて、多くの方にコメントをいただけたのも、「うすい」さんとの縁が導いてくれたことと思っています。
>つるこさん
前回は、普通のお笑いネタでしたが、あれだけだと物足りないなとも思い、いつかは入店しなければならないと考えていました。その後、何度か近くまで行く機会はあったのですが、入店にまでは至っておりませんでした。
前の記事から約1ヶ月。意外な展開となってしまいました。ドラマはふとした瞬間に訪れるものなんですね。
>昭和41年から41年間っていうのもなんだか意味ありそう^^
これは私も何か意味があるのではないかなと思っています。ミストレスが「潮時かしら…」とお考えになって、ふと思い返してみると、「昭和41年からだから、41年間お店を続けていたのね。あら、いい区切りじゃないかしら」と。
現在「にくばなれ」は月3回更新(毎月10日前後の更新)、「たらふく。」の方は、週1回更新を目指しております。頻繁に更新しているブログではございませんが、リンクして頂ければ、大変幸いでございます。どうか、よろしくお願いいたします。
投稿: 桜濱 | 2006.12.12 19:38
桜濱さん、こんにちは。
以前「喫茶うすい」のコーヒネタに爆笑してコメントさせていただきました。
その後が気になって訪れたら、こんな展開になっていたとは・・・
でも、閉店間近に行ったというのもご縁ですね。
お店での出来事は、ただお腹を満たすだけではなく、ドラマがありますね。
昭和41年から41年間っていうのもなんだか意味ありそう^^
ところで桜濱さんのブログ、「たらふく。」も拝見させていただきました。
とってもおもしろく、他の人にも楽しんでいただきたいので、リンクさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
投稿: つるこ | 2006.12.12 17:50
ああ、本当に店の人とお話できてよかったですね。
なにげなく代金を渡して店を出てしまったら、このような展開はなかったのですよね。人の縁というものをしみじみ感じるお話でした。
そして、前記事の印象と衝撃をあくまで持ち続けてさりげなく「コーヒ」を追及したのもよくわかります。さすがでした。
投稿: みんた | 2006.12.12 08:05
桜濱さん初めまして。いつも楽しく拝見させて頂いております。
久しぶりにハートフルな素敵なお話に触れて、目頭があつくなりました。
電球は桜濱さんに取り替えてほしくて待っていたのかもしれませんね。
ただ!!!!!
ひとしきり読み終えて感慨に深けていた時、
>◎店舗・商品データ
>・商品データ
>商品名:コーヒ
>価格:¥300
この記述を見て思わず笑ってしまいました。
ありがとうございました。
投稿: みさと | 2006.12.12 07:13
桜濱さん、こんばんわ!
久しぶりに来ました。
なんだか自分の手で、閉店に追い込んでしまったドーナツ店とオーバーラップして、悲しくなってしまいました。
また来ます。 エーン!!
投稿: 不良中年店員 | 2006.12.12 00:17
思いがけなくも素敵な短編小説を読ませていただきました。
楽しいひと時でした。
ありがとうございました。
書いてからリムさんのコメントとかぶっているのに気づきましたが、心に浮かんだそのままにしておきます。
投稿: まひろ | 2006.12.11 23:04
なんとなんと。
いーいお話でしたねー。
楽しませていただきました。
ありがとうございました。
投稿: リム | 2006.12.11 22:15