助詞「ゎ」の効果 ―「ギャル文字『ゎ』の一般化の可能性―
「わたしは買い物をしたかったけど、彼は海へ行こうって言った。」
上の文章は何の変哲もありません。これを、少々変えてみます。
「わたしゎ買い物をしたかったけど、彼ゎ海へ行こうって言った。」
助詞「は」を「ゎ」と表記した文章を最近良く見かけます。特に若い女性が書いたと思われる文章によく現れるようです。この現象は、音韻(発音)と、仮名遣い(書き文字)を一致させた結果と考えることができそうです。
歴史的仮名遣いと現代仮名遣いでは、音韻と仮名遣いが異なるものがあります。「顔」は、「かお」と発音しますが、歴史的仮名遣いでは「かほ」、同様に「火事」は「かじ」と発音しますが、歴史的仮名遣いでは「くゎじ」と表記していました。
このような、音韻と仮名遣いの差は、現代では埋められていき、音韻と仮名遣いが一致するようになってきました。
しかし、現代でも、音韻と仮名遣いが一致していない、しかも、それがごく自然に、多く使用されているのです。その代表格が、助詞の「は」「へ」「を」です。
小学校に入学してすぐのひらがなの書き方で「『は』は『は』と言うのに、『わたしわ』は間違っている」「『がっこうえいく』もダメ」と教わった時、なぜだろうと思いませんでしたか?
『岩波国語辞典 第五版』を見ると、助詞「へ」は「動作や作用の向きを示す。動作の帰着点。動作の相手」を表す格助詞、助詞「を」は「動作の対象を動的に見て示す」格助詞とあります。
「格助詞」は、「事柄と事柄との関係(「格」)の認定を表現するもの」(『築島裕 『国語学』 東京大学出版会)という説明されていますが、分かりにくいです。「が」「へ」「に」「を」などが格助詞に分類されているところから、「助詞がくっついたものがどのような役割かをはっきりとさせ、そのほかのものにどのような意味合いをもって関係しているのかを表すもの」と考えることにしました。「『が』がくっつく語は、主語になって、動作する人、物をあらわす」「『に』がくっつく語は、動きが最終的に向かう物事をあらわす」という具合にです。助詞の種類が今回の主題ではないため、これ以上、深くつつかないこととしましょう。ぼろがでます。
そして、今回の主役「は」は、「物・事を他と区別し取り立てて示すのに使う。他の物事(や状態)と対比して言うのに使」い、格を示さない「係助詞」と説明されています。「係助詞」は「陳述をなす用言に関係ある語に附属して、その陳述に勢力を及すもの」(『国語学』)と定義されています。これまた、よく分からない説明です。「読書百遍意自ずから通ず」ということわざをよりどころにして、上の説明を百回読んだ結果、「格助詞は文章の中の語の役割を決めるものだけど、係助詞は文章全体に影響を与えるもの」であると解釈しました。
以上の助詞についての説明は、おそらく不完全だと思いますが、私には、これ以上考えることができませんでした。ご専門の方のご教示をお受けしたいと思っております。
あらためて、助詞「は」の方に戻ることといたします。
よく、外国人の方が日本語を学ばれるとき「『が』と『は』の使い分けが分からない」ということを耳にします。そして、その違いを説明するように求められたとき、日本人もよく分からないということも耳にします。
悩んだ挙句、「『が』も『は』も主語にくっつくものなのだけど、ちょっとだけニュアンスが違うのよね…」という説明になってしまいます(実際は「は」は格助詞ではないので、主語を示すものではないようです)。
前述の引用に拠りますと「は」は「他と区別し取り立てて示す」とあるので、「が」とは違って、「は」が付くものは強調されているように思えます。
「は」についてのもう一つの大きな疑問は、小学校の例に挙げたものです。「なぜ、『わ』と言うのに「は」と書かないといけないの?」です。こちらは、いくらか説明が容易でしょう。「助詞のときは「わ」と言うけど、書くときは「は」なのよ」と。しかし、そのあとの質問が来たときに困ります。「なぜ、どっちも「わ」なのに、書き方を変えているの?」という質問です。ここでグッと答えに詰まります。なぜ「は」なのに「わ」なのか。なぜでしょう? 日本語史をたぐれば答えがでるかもしれません。日本語学の専門家の方にとっては説明が容易なのかもしれません。
しかし、日本語学を専門的に勉強をしていない大多数の人にとっては、非常に難しい問題です。ニュアンスはなんとなく分かるのに、説明が上手くできないもどかしさがあります。
ここで一番最初に戻りましょう。
「わたしゎ買い物をしたかったけど、彼ゎ海へ行こうって言った。」
この「は」を、「ゎ」に変えた文章は、そのもどかしさを無くして、文章を書いた人の個性を表現する手段だと思うのです。
助詞「ゎ」は、若い女性が書いたと思われる文章に多く出てくると書きました。それをGoogleで検証してみましょう。自称(一人称)語に「ゎ」を付加したワードを検索し、そのヒット件数を比較します。
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「私ゎ」…437,000件
「僕ゎ」…25,100件
「俺ゎ」…39,400件
「わたしゎ」…25,900件
「わたくしゎ」…1,070件
「あたしゎ」…107,000件
「ぼくゎ」…2,600件
「おれゎ」…4,260件
「おいらゎ」…205件
「ワタシゎ」…707件
「ワタクシゎ」…116件
「アタシゎ」…30,900件
「ボクゎ」…592件
「オレゎ」…931件
「オイラゎ」…3,626件
「私ヮ」…11,900件
「僕ヮ」…851件
「俺ヮ」…1,100件
「わたしヮ」…188件
「わたくしヮ」…23件
「あたしヮ」…1,490件
「ぼくヮ」…27件
「おれヮ」…21件
「おいらヮ」…3件
「ワタシヮ」…404件
「ワタクシヮ」…1件
「アタシヮ」…426件
「ボクヮ」…379件
「オレヮ」…370件
「オイラヮ」…70件
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自称語「おいら」は、「ブログの女王・眞鍋かをりさん」が使用されていらっしゃるので、加えてみました。
この結果を見ると、明らかに女性の自称語の方に「ゎ」が使用されているのが分かります。自称語「わたし」「ワタシ」「私」は、中性的であると見ることができますが、自称語「あたし」「アタシ」は、女性の自称語の意味合いが強いとみられ、それをふまえると、「私ゎ」「あたしゎ」「アタシゎ」の、他に比べて飛びぬけて使用数の多い自称語は、女性の手によるものと考えることができるでしょう。
では、「ゎ」はなぜ使用されるのでしょうか。一つは、前述の音韻と仮名遣いを一致させた結果と見ることができます。一致させるうえで、助詞であることを明確にするために、「わ」ではなく「ゎ」となったのでしょう。
また、「は」に比べて「わ」は丸みを帯びているため、文字の印象が和らぎます。これは、角を持つカタカナの「ヮ」の方が、ひらがなの「ゎ」よりも格段に使用数が少ないことからも裏付けられます。それに加えて、「わ」を「ゎ」と小文字化することで、「かわいらしさ」の強調が為されていると考えられるでしょう。もともとの助詞「は」の強調の意味に加えて、書き手によって「かわいらしさ」の強調が意図的になされているのです。
漢字では同じ「私ゎ」でも、「わたしゎ」より「わたくしゎ」がはるかに少ないのは、「わたくし」という読み方がフォーマルな要素を持ち、「かわいらしさ」とは逆ベクトルにあるためと言えるでしょう。
助詞「は」から助詞「ゎ」への変化は、単純に、流行の一つ、一過性のものと断ずるには早いと思われます。「ゎ」が助詞であることを示すために小文字化させていること、音韻と仮名遣いの差を埋めていることから、一般化する可能性を大きく含んでいると思います。
それでは最後に、「ゎ」を使えば、文章がかわいらしくなるのか、実験をしてみましょう。よく知られる文章に使われている「は」を「ゎ」に変えてみます。
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吾輩ゎ猫である。名前ゎまだない。(夏目漱石『吾輩は猫である』)
Kゎ自殺して死んでしまったのです。私ゎ今でもその光景を思い出すと慄然とします。(夏目漱石『こころ』)
御釈迦様ゎ地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多にゎ蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)
小僧ゎ少し思い切った調子で、こんな事ゎ初めてじゃないというように、勢よく手を延ばし、三つほど並んでいる鮪の鮨の一つを摘んだ。(志賀直哉『小僧の神様』)
今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんゎ、ばたりとたおれました。兵十ゎかけよって来ました。(中略)ごんゎ、ぐったりとめをつぶったまま、うなずきました。兵十ゎ、火縄銃をばたりと、とり落しました。(新美南吉『ごん狐』)
隴西の李徴ゎ博学才穎(中島敦『山月記』)
「それじゃ断然お前ゎ嫁く来だね! これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちええ、腸の腐った女! 姦婦!!」
その声とともに貫一ゎ脚を挙げて宮の弱腰を礑と踢たり。(尾崎紅葉『金色夜叉』)
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名作の力が強いか、「ゎ」の力が強いか…。ご覧下さった皆様のご判断にお任せいたします。
・参考文献
築島裕著 『国語学』 東京大学出版会 1964年5月
西尾実他編 『岩波国語辞典 第五版』 岩波書店 1994年11月
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コメント
>るうさん
コメントを下さいまして、ありがとうございます。この話題は、多くの方々、特にネットユーザーの方々には、興味を惹かれるようです。あの独特の表記法に何らかのご意見をもたれていらっしゃる方が潜在的に多いように思われます。
話し言葉と書き言葉のギャップが日本語の特徴の一つであることは確かなことだと思います。それを「新口語体候補」と表現することに面白みを感じました。それ自体に良し悪しがあるわけではなく、また促進させる意図が強く働いているわけでもない、自然な流れでそうなってきている言語現象ですね。ただ、今後、それが加速して、「候補」が取れるかどうかは、先のコメントでも書きましたように、一過性で済むことなく、10年単位で決まってくることでしょう。
「ゎ」などのかな小書きは、書き取り、読み取り、聞き取り、のうちどれが重要視された結果か、というと、読み取り偏重のように思われます。仰るとおり、ビジュアル面での復活現象で、日本語の言語体系に組み入れられている表記法を用いて、新たな使い方をしているということでしょう。
ただ、それが、以前の使用法のように「火事(かじ)」を「くゎじ」と読まずに、当てはめ方を変えて、文章の伝達において、書記者がビジュアル面で個性を出すための方法にしていることが違ってきているわけですね。
芥川や漱石たち、いわゆる「古典」の作者たちはどう思われるでしょうね。ご意見の通り、漱石あたりならば面白がりそうな気がします。
記号や、他言語の文字を使って日本語を表現するレベルにまでなると、「日本語」としての問題が表面化することになるでしょうが、それまでになるのはなかなか無いのではないかとは思っておりますが。現時点での現象としては、これまた興味深いところがあります。
旧仮名旧漢字は、一部の文人がまだ使っていますね。それがやはり個性の表徴として働いているようです。しかし、彼らの用法は廃れる方向にあるでしょう。旧仮名旧漢字と新仮名新漢字の交ぜ書きが行われてくると、また、言語現象としては面白いと思います。それが行われてくるとなると、またビジュアル面での強調の結果のような気がいたします。
投稿: 桜濱 | 2009.07.25 13:25
はじめまして,
DPZのコネタを拝見していて,興味深い記事があったので寄らせていただきました。
いささか前の記事へのコメントですみません。でもとても面白かったです。
具体的に日本語の品詞についてどうというコメントはできないのですが,話し言葉と書き言葉のギャップを更に埋めるという点では,「新口語体」候補くらいになるのかもしれません。
ただ,話し言葉と書き言葉のギャップが日本語のいいところでもあると思うので,複雑ですね。
女子たちが,「ゎ」をはじめ,従来の助詞等の書き方を変えて表記するということは,活字の復活,ちょっと言いすぎか,活字のビジュアルな面の復活現象なんだろうなあーと思ったりしてました。
古典の文章で「は」を「ゎ」にかえたら,彼女たちも読んでくれそうな気がして面白いです。金色夜叉はともかく,芥川,夏目あたりは本人も面白がってくれるかもしれません。
女子たちは最近ではひらがなやかたかなを似たようなキリル文字に置き換えてみたりもしていますが,こうなると日本語の品詞の表示どうこうという範疇ではなくなりますね。そのうち旧仮名旧漢字を流行らせてくれたら面白いのになぁー。なんて。
投稿: るう | 2009.07.25 12:23
>物好きさん
コメントを下さいましてありがとうございます。
この記事は3年前のものですが、いまだに「ゎ」というワードで検索して、お読みくださる方がかなりいらっしゃいます。やはり、まだ、助詞「ゎ」に違和感を感じる方が、多いんだろうな、と思っております。
「ゎ」は、「公式的には」文法上では、今でも認められていないと思います。使っている方々は、文章中に「自分」という個性を出すために、「ゎ」を使って、文章をお書きになっているのでしょう。
ただ、原稿用紙の手書きで「ゎ」や、大学などのレポートで「ゎ」を使っているという話しは、私は聞いておりません。やはり、「ネット語」の一つとして括るのが、今のところは適当ではないかと思っています。
ただ、この記事を書いた時点では、この流行の期限は1年くらいだろうな、と思っておりましたので、依然として使われていることに、最近は、違和感などのネガティブな思いよりも、よくここまで残っているな、と感心している部分もあります。
本記事中で言及した「『ゎ』の一般化の可能性」ですが、ここまで残っているとなると、その可能性はまるっきり0%ではないのかもしれません。「手書き」で、これが出てきたら「文法の変化」と言えるでしょう。しかし、現時点では、「常識」でも「新しい文法」でも無いと言えると思います。まだまだ、一過性のものであり、これをフォーマルな場面では使用できないでしょうね。
投稿: 桜濱 | 2009.07.11 00:35
初めましてです。何だか自分と同じ考え方をしている人が
いて喜ばしいです。
正直可愛いからという理由で「ゎ」等という紛い物なものを
作らないで欲しいと感じています。
中高生の間では友人とのコミュニケーションを円滑にする
良いものかもしれませんが、特に親しい人にでもない人にも
「ゎ」と使うのは真剣味に欠けますし、何よりふざけてます。
ネットで書き込んでも見る人は僅かでしょうから
長々と道徳的に説くような事はしませんが
私個人の意見としては、ネットでもリアルでも使ってはほしく
ないものですね。
投稿: 物好き | 2009.07.10 21:28
>まひろさん
私も初めて「ゎ」と見たときは、それこそ「なんだ、これゎ!?」と思いましたが、しばらく観察を続けているうちに、「これは単なる一つの流行ではない。日本語史上、看過できない現象ではなかろうか」と思うようになってきました。
現在、JISコードで表示できるかな小文字は「ぁぃぅぇぉっゃゅょゎ」ですね。「っ」は促音、「ゃゅょ」は拗音として、日常的に使用されており、「ぁぃぅぇぉ」は擬音語・擬態語や外来語のかな表記で多々使われています。ただ、「ゎ」は「ょ」と同じ拗音でありながら、使用頻度が著しく低いです。歴史的仮名遣いでは「くゎ」(か)「ぐゎ」(が)のように拗音として使われていたものが、現代仮名遣いでは「か」「が」に統一されてしまったためです。
それが「わたしゎ」といった表記で再び使われるようになったのは、一種の「先祖がえり」、新たな役割を担っての再登場のように思えるのです。
現状を見ると、小文字かなは「ゎ」からさらに広がりを持っているようですね。拗音としてではない「ゃゅょ」も見かけますし、普通のあ行の字で表記する語でも、小文字かなを使っているのも見かけます。私自身、このブログの中で「ぅゎぁ」なんて表記することもあります。「うわー」よりも、肩を狭くして小声で驚いているニュアンスを出せると思って書いておりました。
「はっきりしないから小さく書く」よりも、むしろ、係助詞「は」の特性である強調の意味を、さらに大きくするために「ゎ」が使われているように感じております。
手書き文字だと大小の区別が付けにくいため(「わ」が「は」の書き間違いだと思われる可能性が生じてしまうため)、まだまだ「ゎ」の出番は少ないでしょうが、電子文字だとタイピング方が違うため、はっきりと「わ」と「ゎ」の違いが生まれ、意味の上でも、音と表記を一致させることができます。
長期的に、「ゎ」の動向を見ていきたいですね。
投稿: 桜濱 | 2006.07.17 02:21
『ゎ』の一般化の可能性~?そんなことがあってたまるかあ~!と、標題を一読した時点では思ったのですが。
桜濱さんのお説拝見いたしますと、充分ありえると思い直しました。『っ』『ゃ』『ゅ』『ょ』には抵抗がないのですから、『ゎ』や『ぇ』を受け入れるのもたいしたことではないといえば言えると思います。
私はやたらと小さな仮名を多用するギャル文字を目にすると甘えたようなと言うか、締まりのないというか、そんな空気がスカスカと抜けるようなもの言いを耳もとでされているような不快な気分になります。
小さな仮名がたくさん目に入ると即座に読むことをやめてしまっていて、細かく使用例を検討した事はないのですが、自分が受ける印象から、小さな仮名を使用するのは、はっきりと発音しないことを表すためと感じてました。でも、桜濱さんは「かわいらしさ」の演出とみていらっしゃるのですね。
「はっきり発音しないから小さく書く」と「『わ』と発音しているから『わ』と書く」の両方の要因が合わさって『ゎ』と表記されているのであれば『ゎ』のままで、ほかの小さな仮名の使用までもが一般化されそうでなんだかいやな気分なのですが、ギャル的かわいらしさ追求を含めて今は『ゎ』になっているとすれば一般化のあかつきには「わ」になっていくのではないかと、出来ればそうであって欲しいなと保守的なあたまは考えている次第です。
投稿: まひろ | 2006.07.15 14:42